学会の概要

沿革

『日本色素細胞学会の発展経緯 〜国際色素細胞学会連合における役割』

初代会長 三嶋 豊

日本の色素細胞学会も欧米、世界の色素細胞学会の激動の時代を経て、創設期から発展期にさしかかっていると考えられます。今までは各会員の良識に基づいて学会を運営できるように簡単な規約で来た訳でありますが、この時点で、本学会の組織をもっと近代化し、且つ研究者各個人の研究活動が更にいろんなcoordinationのもとで盛んになって行くように全会員による選挙を行い新会則を1997年7月制定し、同年11月新理事会が発足いたしました。

そこで、この機会に本学会の歴史的発展と急速な国際化の進展の経緯を少し振り返ってみたいと思います。

1946年に第1回国際色素細胞会議(IPCC)がMyron GordonによりNew Yorkで開催され、以後3年〜4年毎に主に米国で行われてきました。31年後1977年にMasachusetts州の Cambridgeでの第10回IPCC時、Fitzpatrick教授が初代Presidentとなり、International Pigment Cell Society(IPCS)が誕生。その13年後に Federationが出来たのですが、これは主に米国そして欧州および日本の研究者達のほぼ一致した意見によるものでした。その中の主な意見は当時のIPCSが殆んど米国中心の色素細胞学会であり、本来、国際学会は各国の国内学会の連合であるべきというもので、1990年にIPCSのInternational Federation of Pigment Cell Societies(IFPCS)への移行が行われました。

一方、日本からのIPCC出席者は、1980年頃までは、非常に少数で、しばしばそれらの方々が廊下の片隅で、話し合っている状況でありましたが、以後次第に出席者も増加しつづけ独創的な発表も多くなされるようになったのは、御存知のとおりです。その頃から日・米・欧の諸国でみずからの学会創設の動きが出て、まずEuropeでESPCRが85年にProta教授らによって創設され、2年遅れ87年にJSPCRが神戸で開催された折、それまで続いていたPigment Cell Clubを母体とし、学会として一応産声をあげました。その1年後米国を中心に、PanAmerican SPCRが1988年創設されました。かかる流れの中で此等Regional Societyを連合した形のIFPCSをつくろうではないかと言う声が期せずして世界各国から起きたわけであります。偶然とも思えますが丁度1990年に神戸で第14回IPCCが開催された折、急転直下、IFPCSが出来、選挙の結果、私が初代Presidentに選出され、突然日本に責任が廻って来ました。以後の事はあまり多言を要しないと思いますが、米国で創設のIPCSからの円滑な移行は、多事多難でしたが、幸いに皆さんのsupportsが得られ、第2代目のProta教授、第3代目のHearing博士とFederationは3年毎に、日・米・欧の間で役員をrotateし今日に至っています。その間Federationの構成3学会はEqual Partnershipで行こうと言うprincipleを樹立することが出来ました。例えば1993年には故竹内拓司教授をBagnara教授の後の第2代目Editorに推挙、同教授が逝去後、1995年から松本二郎教授が第3代目Editorになり、また1993年〜1996年にはSecretary-Treasurerを伊藤祥輔教授が完遂され、1996年〜1999年の任期で、堀嘉昭教授がVice-Presidentに就任。JSPCRも学問的な業績だけからみますと3Societiesの中で多少背伸びの感もありますが、会員皆様の御努力で一応、国際的にもEstablished Organizationとなっていると思われます。

従いまして、これから更に日本国内の新しい研究者層を拡大し、これを水平軸に、益々の研究の隆盛化を垂直軸としてのばし、より独創的な研究を盛んにして行く為に、Globalなレベルにたって広く意見を集約し、新会則による本学会の新体制の発足をみた次第です。

Federationの理事会でも繰り返し言われていることは、如何にして学会活動のContinuationとRenewalのバランスをとって、我々の学会が円滑に、更なる発展を遂げるかということです。このTransitionに断絶が起きては、いままで蓄積した力が削がれてしまいますから、この両者のバランスを見通しながら本学会の更なる発展を期したいと存じます。

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